第3回「母への手紙・父への手紙」作文コンクール作品紹介

最優秀賞

三文字の名前を

中村実千代(61)栃木県小山市

 お父さん、居間の炬燵の上に置いてあった箸袋。あれ、お父さんが置いたのでしょう。
 お父さんが旅立った後、私見付けたのよ、蕎麦屋さんの箸袋。何気なく手に取って裏返したら、文字が三個書いてあった。それも赤インクで。良く見たら私の名前の三文字だったの。びっくりしたわ。だって、なぜ、箸袋に私の名前が書いてあるのか、訳が分からなかったから…。それも、赤インクで…よ。
 じっと文字を見ていたら、その文字がお父さんの文字だって、はっと気付いたの。そして、炬燵の鉛筆立てに、古ぼけた、よくインクの出ない赤ペンが差してあるのにも目がいったわ。お父さんは、娘の名前を時々忘れている自分に気付いたのね。それで、思い出した時に書き留めておこうと考えたのね。朧気になる自分の記憶が心配になり、急いで書きとめようとして、手元にあった赤ペンを使ったのね。
 私は、震える線で書かれた自分の名前を見て、胸が詰まってきたわ。愛しい娘の名前を必死に書き留めるためにペンを握ったけれど、指にはもう力が入らず、小刻みに震えてしまったのね。
 お父さんは、お母さんに先立たれて一人ぼっちになった淋しい居間で、赤ペンを握って一文字一文字、私の顔を思い浮かべながら名前を書いたのでしょう。背中を丸め、箸袋に文字を書く、小さくなってしまったお父さんの後姿を思い浮かべ、私は可哀相で堪らず、声を上げて泣きました。
 私が末っ子として生まれた時、女優さんの名前を頂いて、私に名付けてくれた。この名前、私大好きなのよ。そんな大切なことを伝えずに、お父さんと永遠に別れてしまった。
 箸袋の名前は、たった三個の文字だけど、お父さんの娘を想う心が溢れているようで、どんな長い文章にも負けない深い愛を感じました。最期に私の名前を書いて下さったことに心から感謝しています。


優秀賞

コロじゃが

光嶋次男(75)大阪府交野市

 あれは田植えのころだったと思う。
 「慎ちゃん、これがなんとも言えんうんまいんじゃけん、まあ喰うてみんさい
 「オバチャンおいしいね。僕こんなおいしいじゃが芋食べたことあらへんおおきにオバチャン」垂れる洟を拭くのも忘れパクついてた。
 神戸を焼け出されて二軒隣に、疎開してきた慎吾にオカンはめっぽう優しかったよね。遊んだあと帰りには必ず残りを、新聞紙に包んで持たせてたなあ。じゃが芋を収穫すると、畑にうずらの卵ほどの芋がいっぱいに残ったもんだ。この『コロじゃが』普段は牛の餌にしていたんやが、村に疎開してくる人が増えて、うちにも貰いに来たんだよね。蒸して塩をふりかけ、竹串や笹棒に四ツ五ツ刺し熱いうちにフーフー言って喰うのがことのほかうんまかったなー。
 暑い時でも慎吾は鼻が悪いのかいつも青洟あおばなを二本垂らしていた。「ろうそく」という渾名あだな(ニックネーム)付けられ、皆からからかわれていた。そんな話をするとオカンはいつも「お前らみんなで苛めちゃいけん。慎ちゃんは家もなんにもかも空襲で燃えてしもうたんじゃがな。ほんまに可哀相な子じゃけんのう」
 慎吾はワシに「こうちゃん光ちゃん」といつも金魚の糞みたいにくっついて来た。それはきっとワシがガキ大将で安心だったんだろうな。
 今、四国に住んでる慎ちゃんと同窓会で会った。昔の話に花が咲き、オカンが亡くなったと伝えると『コロじゃが』は俺の宝話じゃ言ってオイオイ洟水をすすって泣いたんよ
 「お前、まだ『洟ろうそく』は治らんのか?」
 「アホ、『コロじゃが』の話にや弱いけんな」
 「ガハハハ、作州弁になっとるがな慎吾!」
 数日後、「俺には生みの母と育ての母二人いて、ふるさとは神戸じゃない柵原やなはらです。オバチャンに逢って一言お礼が言いたかった」と『讃岐うどん』をどっさり送ってきたよ。『疎開』の言葉など消え失せている今、オカンの優しさと心の広さを慎吾に改めて教えられたんよ…。


母への手紙

東城加代子(63)宮城県遠田郡美里町

 今は亡き母です。今年で十七年になります。母との思い出は母の苦労している姿だけが目に浮かびます。この世に生をいただいて小さい時から学校にも行けず母は字も書けず読むこともできませんでした。私がそれを知ったのは小学校一年生のときでした。学校から親に書いてもらう書類がありました。それを母に渡すと黙って「これから実家に行ってくるね」と話したことを私はしっかり覚えています。母に「どうして」と尋ねると母は目にいっぱい涙をためて「ごめんね」と言った言葉も覚えております。
 母からその時に戦争のお話を聞いて、長女である母は家を守るため、自分の兄弟を守るため奉公に行って学校に行けなかったのです。そのとき私は母に、自転車で行って「じいちゃんに書いてもらってくるから大丈夫」って話しました。
 私は『一年生母』と共にまっ黒くなるまで紙に字の書き方を勉強しました。母はすっかり字も書けて、読むことも出来るようになったのです。
 小さいながら私は戦争という言葉に強い憤りを感じました。その人の人生を変え、何もかも奪ってしまう、そういうことが許されるかと。母は毎日汗まみれの顔をして働いている姿しか私にはありません。この母にいつかきっと楽にしてあげたいと心の中で思っていました。でもある日、母の病気が見つかり肝臓癌でした。余命半年、私は頭の中がまっ白でした。
 小さい時から働いて働いて母には幸せがあったのだろうか。いつかきれいな着物を着せてあげたいと思っていました。母との思い出は病院生活の中でゆっくりとお話し出来たことです。それはその時だけです。
 そして母は、自分の家で死にたいと話して病院を後にしました。最期の母の顔はとってもきれいで、母が縫った着物を着せてあげました。
 「ありがとうお母さん」って最初で最後の手紙です。本当にありがとう。


橋本五郎賞

母への手紙

佐藤佳代(38)山形県山形市

 お母さん、知ってますか? お父さん、携帯電話を使いこなせるようになったんだよ。今は、音声で操作を誘導してくれる機種が出来て、お父さんはすぐにボタンの配列を覚え、私には短歌、私の姉には次回の東京行の連絡、妹には「ビールを買ってきてください」とかの業務連絡をメールで送っているんだよ。
 でね、この前、たくさん溜まった送信メールを整理していたらお母さんのアドレス宛て(妹が入力したんだね) が出てきたの。
 続けて三回出てきた送信メールを開いてみると、本文は空白。次も空白。三通目も空白。開く度になんだか涙がこみ上げてきた。きっと、きっとメールでは綴りきれない想いがあったんだろうね。
 お母さんと過ごした三十年、そしてお母さんを失った十年の溢れる心をメールにして送ったんだろうね。私はお父さんに何も聞けないまま、そのメールを保存して作業を続けようと思ったけど涙で画面が見えなかった。
 二十九歳で失明したお父さんを、失明すると分かっていたかもしれない看護師のお母さんが、支えると決めて結婚し、お父さんの目と光であり続けた人生がどんなものであったか分からない。けれど、病床で私に「離婚して、あなたらしく生き直しなさい。そして、自分にあった人と再婚して子どもを産みなさい。」と言った。当時の私は反発したけど、十年経った今、お母さんの言葉通りになったよ。
 お酒は飲めないけど、私を一番に思ってくれる心豊かな人と再婚したよ。きっとお母さんは私の夫を気にいると思うよ。何より清潔感バツグンだから!お父さんほどハンサムじゃないかもだけど(笑)
 私にもナイチンゲールなお母さんの血が流れているから、しっかり支え、愛しぬいて生きていきます。私に新しい人生と勇気をくれてありがとう。
 それから、私もようやく『お母さん』になれたんだよ。


作品集について

 佳作なども掲載したかったのですが、このあと作品集を編さんしますので、入賞なった全作品は勿論、主催者推薦の作品を含めて今年度中には刊行したいと考えております。図書館、入賞者、協力頂いた方々への寄贈と一般の希望者への販売をします。店頭、通信販売はこのあとの関係者との協議により決定します。いずれホームページでお知らせします。